季節性インフルエンザ
日本で主に冬季に流行する「季節性インフルエンザ」は、A型、B型、C型のインフルエンザウイルスによって引き起こされます。A型は最も一般的なインフルエンザで感染力が高く、高熱、悪寒、筋肉痛、せき、及び鼻水などの症状が表れます。B型は症状は穏やかですが、長引きやすい特徴があります。C型は一度感染すると免疫がつき、ほぼ一生かからないと言われています。
インフルエンザワクチン
現行の季節性インフルエンザワクチンは孵化鶏卵にワクチン株を接種し、増殖してきたウイルスを精製、不活化(感染しない)したものです。インフルエンザワクチンの主要な成分はウイルス表面タンパクである赤血球凝集素(ヘマグルチニン: HA)ですが、HAは頻繁に抗原変異を起こすため、毎年ワクチン株の選定(どのワクチン株を製造するか)を行なう必要があります。季節性インフルエンザワクチンの製造は、A型、B型ウイルスが その対象です。2015/16シーズン以降、A型2種、B型2種からなる4価ワクチンが用いられています(それまではA型2種、B型1種の3価ワクチン)。
4種類も混合されていることをご存じない方が多いのではないでしょうか。ちなみに2023/24シーズンのワクチン製造推奨株に関してはWHOから2023年2月24日に公表され、それを基に国内メーカーで鶏卵での増殖性等が確認され、その結果から厚生科学審議会で製造株が決定されて(2023年5月)国内メーカーで製造されるという流れでした(厚労省資料)。
こうして改めてみると、(WHOが推奨する)流行が予測される株の選定がシーズンの約1年も前に行われることに、「1年も前から正しい予測が出来るだろうか?」と思われるかもしれません。「日本の夏の時期に冬の南半球のインフルエンザの流行から推測しているのでは?」と思われていた方も多いのではないでしょうか。しかし、それでは製造が間に合いません。上述のスケジュールでも製造は結構ギリギリです。私は製造現場(最終工程である包装の確認)に入ったことがあります。その作業は1~2週間、3交代のフル稼働で実施するのですが、工場だけでは人員が足りず、研究員も参加して仕事を回すのが毎夏の恒例でした。
ところで、「ワクチン製造株と実際の流行株が合致したか否か」は非常に重要なことですが、余り話題にはなりません。例えば2023年10月に厚労省は2022/23シーズンの結果を発表しています。インフルエンザの流行が終わって半年もたってからの公表なので、マスコミが取り上げることもなく、我々の耳には届かないといったことなのでしょう。
鶏卵によるワクチン製造と鶏卵馴化
上述したように国内での季節性インフルエンザワクチンは鶏卵で製造します。ヒトインフルエンザウイルスはヒト型受容体(レセプター)には結合し感染しますが、トリ型レセプターには結合出来ません(下図)。したがって、トリ型レセプターしか持たない鶏卵にヒトウイルスは感染しません。では、なぜヒトウイルスを鶏卵で製造出来るのでしょうか?
【補足】
ヒト型レセプターはガラクトースにα2,6結合しているシアル酸を持ち、トリ型レセプターはガラクトースにα2,3結合しているシアル酸を持ちます。ガラクトースにα2,6結合しているシアル酸を持つリセプターが人に多く存在するので便宜上、「ヒト型レセプター」と呼んでおりますが、実は人でも気管支や肺胞では「トリ型レセプター」が存在することが知られています(資料)。犬にはイヌ型レセプターではなく、ヒト型レセプターとトリ型レセプターの両者がある(後述)というのも、便宜上のレセプターの名称だからです。
先に「HAは頻繁に抗原変異を起こす」と述べましたが、トリ型レセプターに結合出来るようにHAが偶然に変異したヒトインフルエンザウイルスが鶏卵に感染・増殖することで製造されているのです。これを「鶏卵馴化」と呼びます。鶏卵馴化に伴うワクチン株の抗原性の変化(ワクチンとしての効果の減弱)がこの分野では問題とされてきましたが、一般には殆ど知られていません。
MDCK細胞によるワクチン製造と細胞馴化
鶏卵に変わる製造方法として期待されるのが、MDCK細胞(イヌ腎由来)による製造です。MDCK細胞は細胞表面にトリ型レセプターとヒト型レセプターの両方を持ちます。したがって、ヒトインフルエンザウイルスが変異することなく感染・増殖 出来ます。今のところ、国内で季節性インフルエンザワクチンのMDCK細胞による製造は実現していませんが、季節性ウイルス流行株の性状解析のための臨床検体からのウイルス分離にはMDCK細胞が用いられています。
MDCK細胞では、当然「鶏卵馴化」は起こりませんが、「細胞馴化」が起こりウイルスの変異が起こることが分かってきました。これは季節性ウイルス流行株の性状解析のために用いるにも、またワクチン製造に用いるにも非常に大きな問題となります。その原因は、MDCK細胞がヒト型レセプターのみならずトリ型レセプターも持つことが主な原因です。つまり、ヒトインフルエンザウイルスの中にトリ型レセプターに結合する変異を持つウイルスが偶然に生じ、そのウイルスが感染し増殖される可能性があるのです。培養時間が長いほど その確率は高まることから、季節性ウイルス流行株の性状解析においては、MDCK細胞を植え継ぐ回数(継代数)を減らして変異導入を回避するような対策がとられています(資料)。一方、MDCK細胞は季節性インフルエンザワクチン製造には用いられていないことから、現実的な問題とはなっていません。
ところで、MDCK細胞の「細胞馴化」を回避する方法が2019年に東京大学医科学研究所から報告されました。具体的には、MDCK細胞に遺伝子を導入して細胞表面のヒト型レセプターを増やし、またトリ型レセプターに変異を入れることで、ヒトインフルエンザウイルスのみが効率よく感染・増殖するように工夫しました。近年中に季節性インフルエンザウイルス流行株の性状解析用にも、また鶏卵に変わる製造法として用いられる可能性があると思われます。
ワクチン接種ではインフルエンザ感染は防げない
「インフルエンザワクチン接種によりインフルエンザに罹らない」と思っている方はいませんか。インフルエンザウイルスは上咽頭のヒト型レセプターに結合することで感染しますが、ここでの防御に働くのが粘膜免疫の主役である免疫グロブリンA(IgA)です。現行の注射型ワクチンで粘膜免疫を誘導することは難しいことが明らかとなっています。したがって、ワクチン接種でインフルエンザ感染を防ぐのは困難ですが、罹った時に重症化するのを防ぐことは期待出来ます。これは専門家には周知のことですが、ワクチン接種を推進するにあたっては邪魔な情報なので、一般には余り知られていません。
一方、アストラゼネカ社が開発した点鼻ワクチンの「フルミスト」は、皮下注射のように痛みがないといった利点だけでなく上咽頭にIgAを誘導することが出来、インフルエンザ感染自体を予防することが期待出来ます。国内でも第一三共(株)から本製品が販売される予定(2024年度)です。アストラゼネカ社の製品では2~49歳と対象年齢が限定されておりますが、第一三共(株)から販売される際の対象年齢は2~18歳とさらに限定されています。なぜ、年齢がこんなにも限定されたのか、その理由は調べた限り詳細は分かりませんでした。
季節性インフルエンザワクチンの安全性
流行シーズンが終わった後(例年7月頃)に厚労省から季節性インフルエンザワクチンの副反応に関する報告がなされます。この情報も一般には伝わらないので、いったいどれくらいの数の重篤な副反応があり、死亡しているのか、私もまったく見当がつきませんでした。2022/23シーズンに関する報告(2023年7月発表)を以下に載せます。
この結果から、厚労省発表の新型コロナワクチンにおける副反応疑い報告頻度(0.0104%)、重篤報告頻度(0.0025%)、死亡報告頻度(0.0005%)と比べると、季節性インフルエンザワクチンの副反応の頻度は かなり低い(死亡報告頻度で約 1/50)ことが分かります。
ところで、前回受けたインフルエンザワクチン接種前の問診票に「鶏卵アレルギーの有無」に関する項目があったと記憶しますが、この考え方は既に否定されていることをご存じでしょうか。国内製造のインフルエンザワクチンに含まれる鶏卵由来のオボアルブミン量は1 ng 程度であり、アナフィラキシーを引き起こす量(600 ng)ではありません(報告)。
まとめ
季節外れですが、インフルエンザワクチンに関して纏めました。夏から秋にかけてのこの時期は、季節性インフルエンザワクチンが流行株と一致していたのか、また副反応はどうだったのか等、前シーズンに係る報告が行われる時期であると同時に、来シーズンの製造株が決まり、製造に向けた準備が始まる頃といった様に、実は重要な時期でもあるのです。
私はこの分野に関わっていたこともあり、普通に暮らしている限り 耳に届きにくい情報を中心に纏めてみました。少し難しい内容も含まれているかもしれませんが、興味を持っていただければ幸いです。